「下からの美学 Aesthetik von Unten」という言葉をご存知でしょうか。
これはG.フェヒナー Fechner,Gustav(1801-1887) によって、それまでの思弁的な美学が「上からの美学」だったとして、対抗する形で提唱された言葉です。芸術を実証科学的に捉えるフェヒナー自身の方法について細かいことは知りません。ただし同じ時期にE. ハンスリック Hanslick, Eduard(1825-1904)が音楽の美しさをあくまで「音楽的」な法則として説明しようと試みたように、それ以降、美学は芸術研究として実証性を求める時代を迎え、今日に至ると言っても良いでしょう。
果たして、それによって芸術や美の秘密が明らかになったのかは分かりません。芸術の非合理性はいつまでも学者たちを悩ませたはずです。どんな合理主義者でも自分がなぜ「恋に落ちる」のか説明できないのです。
芸術研究の歴史はさておいて、僕はこの「下からの美学」という言葉が昔から好きでした。どこかゲリラ的で、民衆的な、反権力の匂いがするのです。おそらく、20世紀を迎えるにあたり本当に必要だったのは「下からの美学」ではなく、「下からの芸術 Kunst von Unten」だったのでしょう。
時祷書に描かれた6月の絵について、「手」というタイトルを与えました。子細に描かれていないとしても、農夫の手とはどういうものか誰でも想像がつきます。働く人の手は美しい。僕は、その精神性や技術の面でクラシック音楽から多くを学んできましたが、一度たりとも権威主義を学んだことはありません。B.ネトル Nettl, Bruno(1930-2020)が教えてくれたように、クラシック音楽も民俗音楽です。絵画や音楽はやはり人間が作ったものだと考えれば、僕はこの壮大な時祷書の中にも、小さな手の温もりを感じるのです。
(作曲家・阿部海太郎)